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いかりや長介(俳優)死の原因は?『全員集合』の快進撃の裏事情!嫁との馴れ初めは?
少し前までのお笑い界は高齢化が叫ばれていて、
若い芸人はなかなか世に出てこられない状態が続いていた。
だが、第七世代ブームによってその状況は一変。
いまや第七世代がバラエティ界における1つの勢力となっている。
そんなお笑い界における第一世代として
必ず名が挙がる芸人といえば「ザ・ドリフターズ」ではないだろうか。
彼らが残した功績、そしてメンバーの入れ替わりで
新たに加入した志村けんに伝えられたものとは……。
長年ドリフと仕事をしてきた放送作家の田村隆が、
企画会議で次から次へとギャグのアイデアが飛び出す
いかりやに驚いてその秘訣を尋ねたところ、
こんな答えが返ってきたという。
「設定を思いつくと、メンバーが勝手に動くんだよ。
こうした方が笑えると思うと、そう動くんだ。
それ以上の動きをすることもあるし。笑っちゃうヨ」
ドリフの快進撃が始まった。ドリフをメインにした冠番組が始まり、
映画やレコードも立て続けにヒットした。
確固たる芸を持ち、その芸をテレビ向けに加工するという
アプローチではなく、初めからテレビそのものに全力で向き合った。
それこそが画期的なことだった。
志村が入ってからは、若い志村がスピード感のあるネタや
感覚的なギャグを取り入れることで、
ギャグのオンパレードという感じになっていった。
音楽に関しては、二流か四流の集まりで、
笑いに関しては素人の集まりでしかなかったドリフだったが、
今思えば、この志村だけが、
本格的なコメディアンの才能をそなえていたのかもしれない。
いかりや長介『だめだこりゃ』新潮文庫
素人集団に過ぎなかったドリフの中に、
初めて現れた本物の芸人。
いかりやは志村のことをそのように高く評価していた。
不仲がささやかれていた2人だったが、
いかりやは志村のことを誰よりも認めていた。
志村も、ドリフの付き人になってから、
長年いかりやの背中を見てコントの作り方を学んできた。
『全員集合』の終了後、同じ枠で加藤と志村の新番組
『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が始まった。
志村はこの番組でさらに自分の理想とする笑いを深く追求するようになった。
番組の会議でも、志村は重苦しい雰囲気の中で
知恵を振り絞ってコントを作っていた。
その姿は『全員集合』時代のいかりやと
そっくりだったと評する人もいた。
小道具やセットに対する「本物志向」のこだわり、
コントの演出や仕掛けのアイデアなど、
志村がいかりやから学んだものは多い。
戦前・戦中世代のいかりやががむしゃらになって取り組んだ
「テレビ芸」としてのコントの伝統は、
下の世代の志村へと受け継がれていったのである。
いかりや長介(俳優)のプロフィールについて
名前 いかりや長介 本名 碇矢 長一(いかりや ちょういち)
生年月日 1931年11月1日(72歳)
出身地 東京府東京市本所区中之郷横川町
身長 175.2cm
事務所 イザワオフィス
いかりや長介さんが生まれたのは第一次大戦と
第二次大戦の中間期の戦争時代です。
13歳の時に第二次大戦が激化したため
静岡県吉原市に疎開し、翌年その地で終戦を迎えました。
終戦後もいかりや長介さんの父はこの地に留まり、
この地で86歳の生涯を終えています。
いかりやさんは、中学校を卒業後、
高校に進学されるも、その後、中退されると、
静岡にある製紙工場「春日製紙」に勤めながら、
同僚らとハワイアンバンドを組み、
ダンスホールで活動されていたそうで、バンドを始めたきっかけは、
女性にもてたかったからだそうです
1959年、28歳のとき、ミュージシャンを目指し上京されると、
ジャッキー吉川さんのロカビリーバンドを経て、
別のロカビリーバンド「クレイジーウェスト」に参加。
カントリーウェスタンバンド、
「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」に、ベースとして参加され、
立川・横須賀・横田の米軍キャンプや、ジャズ喫茶で、
演奏と音楽コントを磨かれます。
1961年12月、いかりやさんは、
米軍キャンプ巡業中に交通事故を起こしてしまい、
「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」の、
所属事務所との関係がさらに悪化してしまうのですが、
1962年、31歳の時、
「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」のリーダーだった、
桜井輝夫さんに誘われ、同バンドに参加されることに。
同時期に加藤茶さんも加入されています。
桜井さんは、ハナ肇さん率いる、「クレージーキャッツ」のような、
音楽でギャグができる、コミックバンドを作りたかったそうで、
「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」での、
いかりやさんの笑いのセンスに目をつけ、いかりやさんを誘ったのでした。
その後、桜井さんがオーナー的な立場となり、
ステージに立つ機会が減っていくと、いかりやさんがリーダーとなり、
グループ名も、「碇矢長一とザ・ドリフターズ」と改名。
特に加藤茶さんとのコンビで、他のコミックバンドとは、
比べ物にならないくらいの面白さで人気を博したのでした。
いかりや長介さんと言えばザ・ドリフターズと言うように、
いかりや長介さんとザ・ドリフターズは互いに代名詞のような存在でした。
コントグループになってからの方が有名なザ・ドリフターズは、
音楽バンド時代にビートルズの前座として
日本武道館で公演した事もあります。
「碇矢長一とザ・ドリフターズ」のメンバーだった、
小野ヤスシさん、ジャイアント吉田さん、
飯塚文雄さん、猪熊虎五郎さんの4名が、
いかりやさんの厳しさとコントの方向性の違いに、
反発して脱退し、新たなコミックバンド、「ドンキーカルテット」を結成。
加藤茶さんは、いかりやさんの強い引き止めと、
小野さんへの猜疑心から残留されるのですが、
残った、加藤さんと綱木文夫さんの3人だけでは、
活動を続けることは難しく、いかりやさんは、
急遽、メンバーを探すこととなったのでした。
いかりや長介(俳優)亡くなる原因は?
いかりや長介は、ザ・ドリフターズのリーダーで名俳優。
惜しまれながら、2004年3月20日に他界しました。
その死因は、原発不明頚部リンパ節がんという病でした。
2003年5月にドラマ「高原へいらっしゃい」を降板して入院した当初、
いかりや長介自身は頚部にわずかなしこりを感じるだけで、
痛みなどの目立った自覚症状はなかったといいます。
いかりや長介は、最初の入院で放射線治療などを行い、
経過良好ということで7月には仕事復帰していました。
しかし、後に長男が明かしたところによると、
実は復帰時点で家族にだけ「余命はもって8ヵ月」と告げられていたのです。
それでも仕事への意欲を見せていたいかりやさんでしたが、
その甲斐もなく2004年3月にいかりやさんは亡くなります。
いかりや長介(俳優)嫁との馴れ初めは?
いかりやさんには結婚歴が3度あります。
その度に起こった離婚の真相は気になるところでしょう。
1度目の結婚相手はホステスさんだったようで、
いかりやさんの息子と娘の母親はこの方のようです。
この頃のドリフターズはまだバンドマンとして
精力的に動いていた時代です。
1963年には娘まゆみさんが生まれ、
1969年に息子である浩一さんが生まれ4人家族となっています。
離婚原因として言われているのは、
バラエティー番組『8時だョ!全員集合』(TBS系列)が
当時爆発的な人気を誇り、売れっ子としてスターになったいかりやさんの側で、
自分の存在価値が見えなくなっていったことだったそうです。
精神的にも心が病んでしまい危ない状態だったとのことで、
医者とのカウンセリングを受け、
離婚を進められたことから離れる決意をしたとのこと。
2人目の結婚相手はお手伝いさんとして
いかりやさんの家で働いており、身の回りの世話をしていた方でした。
子供達も彼女には懐いており、
1979年いかりやさんが47歳の時に結婚を決意しました。
1989年にいかりやさんの嫁が亡くなってしまいます。
嫁が関節リウマチに代表される『膠原病』という病になってしまい、
同時にうつ病も発症、それにより自殺をしてしまったからでした。
膠原病は早期発見の場合、治る可能性が高いといわれており、
うつ病も発症してしまう状態は、
かなり病状が進行していたのでしょうか。
その後はショックからかいかりやさんは酒浸りに放心状態、
以前のようないかりやさんがいなくなったように感じたそうです。
目の前で最愛の人が亡くなっている姿を見てしまうのは、
これほど辛いことはありませんし自暴自棄になるのも仕方ないでしょう。
1993年、3度目の結婚が訪れます。
いかりやさんにとって最後の結婚になり、その相手は義子さん、
いかりやさんは義子さんと結婚式を挙げます。
お互いが若くして結婚したわけでもないので、
実に落ち着きの払った生活をされていたようです。
後々わかったことですが、いかりやさんと義子さんは結婚式は
行ったものの入籍はしていなかったとのこと。
最後に
8時だョ!全員集合」は、最高視聴率50.5%を記録したほどの国民的番組。
番組の全盛期、ザ・ドリフターズのメンバーである加藤茶の年収は、
およそ14億円だったそう。
これは同番組が放送されていた1969年~1985年までの間のことですから、
時価換算すると現在の42億円近い価値があったと思われます。
また、1974年からドリフターズ入りした志村けんは、
24歳にしていきなり月収50万円。
当時の大卒初任給が6万円程度だった事を考えると、笑いが止まらなかったはずです。
番組人気に伴って、1回1500万円の値がついていたドリフターズ。
しかし営業が増えても、メンバーのギャラは大きく動きませんでした。
志村けんによると、渡辺プロ時代には均等配分されていたギャラが、
「ドリフターズ事務所」が設立された途端に「6:1:1:1:1」になったといいます。
当然6は、いかりや長介。
実際の総資産や年収額は不明ですが、
当時の加藤茶を超えていたとしたら、
恐ろしい金額であることは間違いありません。
ザ・ドリフターズの最年少だった志村けんが2020年3月29日に、
新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなりました。70歳でした
師匠と弟子という関係でもある、いかりや長介と志村けん。
2人の間には不仲説も流れていましたが、
志村けんは2019年4月5日に放送された
「中居正広の金曜日のスマイルたちへSP」で、
「ドリフターズは家族みたいなもの」と語っています。
番組にはいかりや長介の長男が出演し、いかりや長介が亡くなる3週間前、
誰にも言わずに志村けんの舞台を観に行っていたことを明かしました。
また、病床で意識が遠のく中、走り書いたメモにあった言葉が
「加藤がえらい、志村がえらい」であったことも伝えたのでした。
志村けんは初めて耳にするエピソードに、
「今から見ると、笑いに一生懸命だったとわかる。その後を継いで良かった。
僕の師匠としては間違いなかった」とコメント。
2人をはじめとするザ・ドリフターズのメンバーは、
本人たちにしかわからない、強い絆で結ばれていたのが伝わってきます。
笑いを追求するあまりピリピリしていた過去も、
空の上で和やかに語り合われているかもしれません。
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