橋田壽賀子(脚本家)夫遺産はいくら?なぜ夫の墓には入らない!?

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橋田壽賀子(脚本家)遺産はいくら?なぜ夫の墓には入らない!?
夫でTBSのプロデューサーだった岩崎嘉一さんの一族の墓は

静岡県内にあるが、生前の橋田さんは

「そこには入らない」と明言していた。

その理由は「亡き姑(しゅうとめ)から

“寿賀子はうちの墓には入れない”とはっきり宣告されていたから」と説明。

「あの世でもややこしい姑とその親族から

いじめられたくなかったから渡りに船」と笑っていた。

岩崎さんとは、夫婦の記念品を入れる別の墓を静岡県内に用意していた。

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橋田壽賀子(脚本家)のプロフィールについて

名前  橋田壽賀子  本名  岩崎 壽賀子(いわさき すがこ)

生年月日  1925年5月10日(95歳)

出身地   日本・京城府(現:大韓民国の旗 韓国・ソウル特別市)

血液型  B型

事務所  松竹

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橋田さんは、戦前、チタンを産出する鉱山と土産店を

営んでいたお父さんのもと、

日本が統治する朝鮮半島で一人っ子として生まれると、

お店を手伝いに出て忙しいお母さんに代わり、

「オモニ(お母さん)」と呼ばれる

近所の主婦に世話をしてもらって育ちます。

幼い橋田さんは、子どもがたくさんいる

オモニの家に行くのが楽しかったそうです

小学4年生になる前に、「教育は日本で」との両親の意向で、

お母さんと二人で大阪に戻られると、

1934年には、大阪・堺市にある小学校に転入。

朝鮮育ちのため、大阪弁ではなく、

標準語で本が読めた橋田さんは、同級生からは

「朝鮮人」と言っていじめられたそうですが、

取っ組み合いのケンカをして相手を負かしてしまうほど、

負けん気の強い少女だったそうです。

ただ、先生からは「教科書を読むのがうまい」と

ほめられていたそうです

橋田さんは成長し、大阪府立堺高等女学校に進学されるのですが、

意外なことに、高校生の頃は文章を書くことが苦手だったそうで、

戦地にいる兵士に慰問文を書かされた時には、

お母さんに代わりに書いてもらい、しかも、

その作文が当時住んでいた大阪の堺市から表彰されてしまい、

私が書いたんじゃないのにと、困ってしまったこともあったそうです

橋田さんは、文章は苦手ながら、文法は好きだったため、

大学は日本女子大学文学部国文学科に進学

日本女子大学を受験されたのは、

受験会場が大阪にもあったことと、

橋田さんを思い通りにしようとするお母さんの愛情が重すぎたため、

母1人子1人の生活が嫌で、

親元を離れるためでもあったそうで、

お母さんには内緒での受験だったそうです

日本女子大学での寮生活は、規則や上下関係が厳しかったうえ、

士族や華族の子どもが多く、戦前の日本は格差社会だったため、

橋田さんが、最初のあいさつで、こんなええ学校にはめてもろて

と大阪弁であいさつすると、自分では、歴史ある大阪・堺の文化都市で育ったと、

誇りに思っていたにもかかわらず、みんなに大爆笑され、

あなた、「はめる」っていうのは、

「指輪をはめる」ということでは、ありませんこと?

と言われて、周りからは下に見られるようになったそうです。

名門でもなく、平民でなんの後ろ盾もなかった橋田さんは、

差別や意地の悪い視線を感じながら、

「なにくそ」と思いながら、大学生活を送られたのでした。

終戦となり、格差や差別がなくなったことは、

すごく嬉しかったそうです

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橋田壽賀子(脚本家)夫遺産はいくら?

結婚そして熱海への移住、『おしん』の大成功。

人生が順風満帆だった。そんな時に大チャンスが舞い込んだ。

徳川家の大奥を描いた大河ドラマ『春日局』の執筆。

だが、その大ヒットドラマの裏にはあまりにも辛すぎる現実が待っていた。

橋田さんが60歳の時、夫・嘉一さんが肺がんになり、

医師から「余命は半年」と宣告される。

1980年代当時は、まだ「がん=死」というイメージが強く、

本人には告知しないのが一般的だったため、

橋田さんは夫に肺を覆う肋膜が炎症を起こす肋膜炎であると嘘をついた。

最後まで夫に病名は伏せていたという橋田さん。

一方、1年間で全50話を書かなければならない

大河ドラマの執筆も待っていた。

しかし、闘病中の夫に付き添いながらの執筆は体力的にも、

精神的にも限界だった。

そんな時に相談をしたのが石井さん。しかし、

石井さんは「あなたが降りたら、嘉一は自分の病名に気づくわよ。

病名を黙っているなら、書き続けるしかない」と

橋田さんに執筆することを勧めた。

夫に嘘を突き通しながら1年間必死に書き続けた橋田さん。

こうして完成した『春日局』は、

平均視聴率32.4%(ビデオリサーチ調べ)を記録。

大河ドラマ史上歴代3位の高視聴率だった。

最終回を書き上げた約20日後、夫は安心したように息を引き取ったという。

夫の死後、株などを整理した橋田さんは、

多額の遺産が残されていたことに気付く。

その額は約2億7000万円

夫が生前、橋田さんの名前を後世に残すために

財団を作ろうと計画していたお金だった。

ここで問題が発生。財団を作るときの基金は3億円必要で、

少し足りなかったのだ。

「2000万円足りないでしょ。しょうがないから、

石井さんに言ったの。そうしたら、

1年書いたら2000万、TBSで借りてあげるって」と

橋田さんは石井さんから言われたという。

『渡る世間は鬼ばかり』の誕生の裏には、

夫が残した莫大な遺産の存在があった。

そして結果的に、「1年書いたら…」が

28年も続く国民的ホームドラマとなったのだ。

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橋田壽賀子(脚本家)夫馴れ初めは?

橋田寿賀子さんと夫の岩橋嘉一さんが出会ったキッカケは

「ただいま11人」というホームドラマでした。

放送されたのは1964年(昭和39年)で、

ちょうど大家族から核家族へと時代が移り変わっていく頃でした。

時代に「大家族」モノのドラマをやろうと言い出したのは、

当時TBSの企画部長だった岩橋嘉一さんだそうです。

そんな彼の姿をみて、橋田寿賀子さんは好きになったんだそうです。

橋田さんは「すごい人だと思った。

今、核家族の中で大人数の家族を書こうというセンスを持っている人。

あの人、いい人だなとちょっと好感持って…」と当時を振り返った。

橋田壽賀子さんが夫の岩橋嘉一さんとご結婚なさったのは、

1966年(昭和41年)の5月10日。

橋田さんが41歳、岩崎さんが36歳の頃でした。

その頃は、鳴かず飛ばずの小説家だった橋田寿賀子さん

「女性が脚本なんか書けるわけがない」という時代で、

パワハラも受けていたんだそうです。

当時TBSの企画課長だった夫の岩橋嘉一さん。

脚本を売り込みに来た橋田さんに、岩橋さんが救いの手を差し伸べたのです。

岩橋さんに恋してしまった橋田さんは、

なんと原稿がまったく進まなくなってしまいました。

TBSのプロデューサーだった石井ふく子さんから

脚本の催促を受けた橋田さんは「恋煩いで原稿が進まない」ことを白状します。

石井さんは、2人を喫茶店に集合させて、

「橋田さんは岩橋さんが好き」なんだと勝手に告白してしまいました。

石井さんはというと「ひたすらに原稿が進むことだけを考えていた」んだそうで、

2人の恋の行方などは全く眼中になかったそうです。

ひたすら仕事を進めることだけを考えていた石井ふく子さん、

恋煩いで原稿が進まない橋田寿賀子さん、

いきなり告白された岩橋嘉一さん。

2人と連絡が取れなくなっていた石井さんですが、

なんと10日後に「結婚することにした」という報告を受けたそうです。

告白からの結婚、石井さんは意図せず

2人のキューピットになってしまったんですね。

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最後に

人さまに迷惑をかける前に死にたい。それが私の望みです。

家族がいれば、子どもや孫の成長を見届けたかったり、

できるだけ生きていて欲しいと望まれることでしょう。

けれども私は、夫に先立たれ、子どもはなく、

親しい友人もいない。天涯孤独の身の上です。

仕事は嫌というほどやったし、

世界中の行きたい場所へ行きました。もうじゅうぶん生きて、

やり残したこともなく、思いを残す相手もいません。

いまはまだ自分で生活できていますが、

足腰が立たなくなったらどうしましょう。

行きたいところへ行けず、食べたいものを食べられなくなったら。

いつの間にか認知症になって、何もわからなくなってしまったら。

食事から下の世話まで人さまの手を借りるなら、

そうなる前に死なせてもらいたい。これは、尊厳とプライドの問題です。

死ぬときに、痛いのや苦しいのも嫌です。

だからいつどうやって死ぬか、自分の意思で決めさせてもらいたい。

それには安楽死しかありません。

安楽死という死に方をごく当たり前に選べるようになればいいな、

と思います。ある程度の年齢になったら、

「そろそろ、おさらばさせて下さい」と申し出る権利があって

いいのではないですか?

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