水前寺清子(演歌歌手)脳梗塞超熟年離婚していた!?

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水前寺清子(演歌歌手)脳梗塞超熟年離婚していた!?
歌手の水前寺清子(75)が、夫の小松明氏(69)と

離婚していたことが3日、分かった。2人は1989年に結婚。

小松氏は水前寺の個人事務所社長を務め、

公私ともに二人三脚で芸能活動をしてきたが、31年目での別離となった。

離婚時期などの詳細は分かっていないが、

事務所の社長はすでに小松氏から水前寺に交代しており、

その交代前後にそれぞれ、新たな人生に向かう決断をしたとみられる。

関係者によると、弁護士を介して細部を調整しているという。

小松氏は元サックス奏者で、水前寺のバックバンドのリーダーを務めた縁で知り合った。

結婚後は音楽をやめマネジメントに専念。

低姿勢の熱心な売り込みで名物社長として知られた。

水前寺のコンサートではしばしば、指揮やサックス演奏を担当。

水前寺にとって欠かせない存在とみられていた。

なぜ、75歳という超熟年離婚を選択したのか。

音楽関係者は「芸能生活55周年という節目を迎えて、

とにかくこれからも新しいことに挑戦していきたいという思いを強めていた。

小松さんという存在に頼るのではなく、自らの力で歩んでいく決意の表れでしょう」と話す。

デビューした64年は東京オリンピックが行われた年。

レコード会社関係者は「新型コロナウイルスで大会が来年に延期されてしまったが、

本人は現役バリバリの歌手として再び東京五輪を見届けることに

強い意欲を燃やしている」と話す。

「三百六十五歩のマーチ」などヒット曲を連発し

「チータ」の愛称で親しまれた。NHK紅白歌合戦には65年から22年連続出場。

昨年は11月に旭日小綬章を受章し、長年の功績が認められた。

私生活で心機一転、新たなスタートを切ったチータが、歌手人生の新章を歩き始める。



 

水前寺清子(演歌歌手)のプロフィールについて

名前  水前寺清子  本名  林田 民子(はやしだ たみこ)

生年月日  1945年10月9日(75歳)

出身地  熊本県熊本市

身長  158cm

血液型  0型

事務所  水清企画

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水前寺さんは、子どもの頃、体が弱く、

走ったり体を動かしたりすることが苦手だったのですが、

歌うことは得意で、地元の歌謡コンクールに、大人に混じって出場しては賞を受賞し、

小学生ながら「のど自慢荒らし」と呼ばれます。

水前寺さんが小学校卒業間近の暮れのこと、突然、お父さんに、

東京に行って歌手になるんだよと言われて、

家族と夜行列車「あさかぜ」に乗って東京へ。

水前寺さんは、遠足気分だったそうですが、実は、ご両親は地元熊本で営んでいた

化粧品店事業に失敗しており、歌のうまい水前寺さんに将来を託した、

夜逃げの上京だったのでした。

一家の再興を水前寺さんにかけていたお父さんは、

水前寺さんが中学生になると、厳しい生活の中、工面して音楽学校に通わせたそうですが、

特に、歌手になりたいと思っていたわけではないものの、

お父さんの喜ぶ顔が見たくて、昼間は学校に行きつつ、夜間は音楽学校に通われると、

1961年、15歳の時には、お父さんが応募した

「第12回コロムビア全国歌謡コンクール」で、見事、全国大会第2位(準優勝)に。

このコンクールで審査員を務めていた、作詞家の星野哲朗さんに、

「練習においで」と声をかけてもらい、気楽な気持ちで、星野さんに師事されたのですが・・・

「コロムビアレコード」の研究生として、レッスンに励まれるも、

レコーディングした11曲はすべてお蔵入りとなるなど、なかなかデビュー出来ず。

この状況に業を煮やした水前寺さんがクラウンレコードに移籍されると、

1964年10月、ついに、12曲目のレコーディングとなった

「涙を抱いた渡り鳥」でようやく念願のレコードデビューを果たされたのでした。

デビューは、水前寺さんのお父さんが、なんで娘はデビューできないんだ

と何度もレコード会社に掛け合った末のデビューで、

デビュー曲「涙を抱いた渡り鳥」も、もともとは、畠山みどりさんが歌う予定だった

「袴を履いた渡り鳥」を畠山さんのキーのまま、

タイトルだけを変更した曲だったそうなので、お父さんの粘りが功を奏したようですね。

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水前寺清子(演歌歌手))脳梗塞

2018年で73歳になる今もなお精力的に活動中ですが、

2014年6月には、腰部脊柱管狭窄症という病気で手術を受けています。

足や腰に痛みやしびれを伴い、加齢によって発症する人が多いという病気ですが、

水前寺清子の場合は、デビューして間もない頃の公演中に転倒したことがきっかけで、

足と腰の違和感と長年付き合ってきたようです。

徐々に悪化していく中、追い打ちをかけてしまったのが2011年でした。

65歳の時に、広島のコンサートステージで階段から転倒してしまい

左膝を骨折した水前寺清子。これが引き金となり一気に症状が悪化し、

手足がしびれ、ふらつきが出て、酷い時にはわずか3メートルすら歩くことが

困難になったと言います。整形外科で腰部脊柱管狭窄症と診断され、

「またステージに立ちたい」という強い気持ちから手術を決断しました。

手術後は、足の筋肉をつけるリハビリを集中的に行い、3週間でリハビリ終了。

退院した翌日にはステージに上がっていたという回復ぶりでした。

つらい症状を乗り越えた水前寺清子ですが、ネット上では痴呆や顔面麻痺を疑う声も見られます。

また、もともと小柄でスレンダーな水前寺清子には、

加齢と共にさらに華奢になったことで

「激ヤセは病気のせいなのでは?」という噂も飛び出しました。

人間誰もが年を取ると容姿も変わるもの。水前寺清子の場合も、

加齢と共に変化した部分を取り上げられただけで、事実ではないと思われます。

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水前寺清子(演歌歌手)結婚?

水前寺清子は、1989年2月28日に、サックス奏者の小松明と結婚しました。

水前寺清子が43歳で、夫・小松明が37歳という熟年結婚でしたが、

結婚に踏み切った決め手は、夫・小松明のバック転。

これを見て感動したことがきっかけでゴールインしました。

小松明との関係は、妻であり歌手である水前寺清子を

支える素敵な夫婦の形と言えるでしょう。

ちなみに2人の間に子供はいません。結婚当時、

水前寺清子がすでに40歳を越えていたことから夫婦2人の人生を選んだものと考えられます。

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最後に

水前寺清子は、2000年に、自らの私財15億円を投じて老人ホームを設立しています。

ホームの名前は「ケアハウス 水清庵」。

出身地である熊本に貢献したいという気持ちから建設に踏み切りましたが、

水前寺清子を支えてきた後援会の人たちが介護の資格を取った際には、

働くことができるようにという考えもあったと言います。

水前寺清子の肩書は名誉施設長で、実質的に経営に携わることはせず、

地元の社会福祉法人を運営していた男性を理事長とし、

施設の運営を一任していたそうです。しかしその後、架空工事や水道料金のごまかしといった

20年以上に渡る不正が次々に発覚。

理事長の女性問題や普段の素行も取りざたされ、

水前寺清子の期待を大きく裏切ることになります。

そんな「水前庵」の現在はというと、なんと「ケアハウス 秀照庵」と名前が変更され、

施設側によると「水前寺清子とは一切関係ない」とか。

設立時には大金を投じた水前寺清子ですが、快適に過ごされているご高齢者も多いことから、

「入居している人が楽しく過ごしてくれることが本望」と語っています。

水前寺清子は、1970年に放送されたテレビドラマ「ありがとう」で

主演を務めた女優としての顔もあります。

ドラマ「ありがとう」は、1970年から3年間放送され、

民放のドラマ史上最高とされる56.3%という視聴率を叩き出した伝説的なドラマ。

四方光役を演じた水前寺清子は、放映から50年近くが経過した2017年9月に、

光の母親役で共演していた山岡久乃との間に確執があったことを明かしています。

当時24歳で、歌手として多忙を極めていた水前寺清子は、

ドラマのセリフを覚えるのもぎりぎりの状態でした。

その姿に業を煮やした山岡久乃が、ある日の撮影で、

水前寺清子を本気で平手打ちしたと言います。

「向こうも嫌いだったと思うが、私も山岡久乃が嫌いだった」と明かした水前寺清子は、

この一件以来、撮影以外で山岡久乃と話すことは一切なくなったとか。

月日は流れて1999年、山岡久乃は、胆管癌による心不全で他界しました。

しかしその後、水前寺清子の楽屋を訪れた山岡久乃の事務所の社長から、

「自分に何かあった時には、これを渡してほしいと頼まれた」と言われ、

大事にしていたという高価な着物を譲り受けたそうです。

この時、さまざまな人生経験を積んで54歳になっていた水前寺清子は、

平手打ちも「愛情の形」だったことに気が付き、「今は感謝しかない」と語っています。

 

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