小野田寛郎【陸軍軍人】横井庄一経歴やプロフィールの生涯の違いは?
小野田寛郎さんは、終戦後29年間フィリピンのルパング島で
潜伏生活をしていた方です。
小野田寛郎のプロフィールについて(動画有り)
名前 小野田寛郎
生年月日 1922年3月19日(91歳没)
出身地 和歌山県海草郡亀川村(現・海南市)
身長 160cm
血液型 0型
職業 小野田牧場 経営者
小野田寛郎さんは、父・小野田種次郎(県議会議員)、
母・タマエ(教師)の間に小野田家の四男として生まれます。
旧制海南中学校時代は剣道選手として活躍します。
中学校卒業後は民間の貿易会社(田島洋行)に就職し、
中華民国の漢口支店勤務となり中国語を習得します!
上海の商事会社で働いていた
1942年12月、満20歳のため徴兵検査を受け
陸軍二等兵として入営します。
フィリピン防衛戦を担当する
第14方面軍情報部付となり、
残置諜者および遊撃指揮の任務を
与えられフィリピンに派遣。
小野田寛郎さんの日本の帰って
来た時の映像があります!こちらです!
小野田寛郎さんは、日本に帰国してからも
相当苦労され波乱万丈の人生を送られています。
小野田寛郎さんが日本に帰国されたのが
戦後30年経ってからですから、
見るもの聞くもの全てに驚かれて
世の中化物ではと思っていられたこもしれませんね!
小野田寛郎さんは、フィリピンから
帰国されてから結婚しています。
子供さんは、2人おられます。
1人の子供さんは、陽介さんという方です。
その陽介さんについては、これだけ本も出している
町枝さんの子供さんですが、
一般人ということでまったく分かっていません。
小野田寛郎さんがブラジルに移住し
牧場経営をしていました!
91歳でなくられています!
一方で、横井庄一さんは、太平洋戦争が終結して28年目に、
グアム島で発見された残留日本兵です!
横井庄一のプロフィールについて(動画有り)
名前 横井庄一
生年月日 1915年3月31日(82歳没)
出身地 大日本帝国・愛知県海部郡佐織村(現:愛西市)
身長 非公表
血液型 A型
職業 評論家
1944年(昭和19年)からはグアム島に配属、
同年7月のグアムの戦いにより戦死したとされます。
しかし、実際は横井庄一さんは戦死しておらず、
山中に潜伏しゲリラ戦を行っていました。
横井庄一さんは旧制小学校卒業後に約5年間、
愛知県豊橋市の洋品店に勤務しました。
そして、1935年(昭和10年)、
満20歳になったため徴兵検査を
受け第一補充兵役(補充兵)に召集されます。
帝国陸軍に入営後4年間、
軍務についた後に洋服の仕立て屋を開きました。
1941年(昭和16年)、太平洋戦争勃発と
同時に再召集されます。
1945年にポツダム宣言受諾による
日本軍の無条件降伏を知らされず、
以来28年間、横井庄一さんは
ジャングルの中の地下壕などで生活。
28年後に現地の住民に偶然発見され
1972年2月2日、日本に帰国しました。
語り継ぐ戦争 グアム潜伏28年の故
横井庄一さんと結婚 横井美保子さん
(朝日新聞社公式CHより)↓↓↓
横井庄一さんは満57才になっていました。
横井さんが57才、美保子さんが44才の時で
13才の年の差婚でした。
美保子さんは結婚後に横井家に掛かってくる
「なんで帰ってきた」というような、
心無い匿名の電話にも頭を下げながら謝ったそうです。
横井さんも立派な方ですが、
妻の美保子さんも負けず劣らず
立派な方だと思います。
その際、横井庄一さんは
「恥ずかしながら生きながらえておりましたけど」と発言し、
この言葉をとらえて
「恥ずかしながら帰って参りました」が
その年の流行語となりました。
その後、横井さんは戦後の日本の変化に
適応できるか心配されましたが、
周囲が驚くほど見事に
戦後日本の生活に馴染みました。
幡新美保子さんと結婚し、
生活評論家として全国各地で講演を行いました。
1974年には参議院議員選挙にも
立候補しましたが惜しくも落選してしまいました!
1997年(平成9年)に逝去されました。
美保子さんは横井さんが亡くなった後に、
横井さんの生前の遺志をくみ
横井庄一記念館を開館され、
自ら館長を務められています。
お二人の間に子供さんはいらっしゃいません。
横井さんは28年間ジャングルの中で
生活されましたが、
素晴らしい美保子さんと一緒に歩まれていたんですね!
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